人間性の境界線とさざなみ

コンピューターが今より更に発達した時代、ピラミッドはかつてのようか直方体のブロックを積み重ねたものでなくてもよい。その形、その質量、その重心を完璧に計算できる時代であれば、人参やジャガイモ、バナナやりんごなど、バラバラの物体を組み上げてピラミッドを完成させることができるから。

そんなようなことが落合陽一さんの著作『デジタルネイチャー』に書いてあった。<近代>の更新機会を説明する1つのメタファーとして。

今まで僕たちは直方体になろうと、いわば「作りたいものからの逆算」として、型にハマるように尽力してきた。教育システムもそのように整っている。僕らは”四角いスイカ”なのだ。

しかし、コンピュータが発達した未来、そんなことをしなくても良くなる。なすびはなすびで良い、という訳だ。

一方で、なすびの僕として思うのは、別に無理に直方体になろうとしないとしても、頑張って、努力をして、「立派ななすび」にはなりたいと思っていたりする。

そこで、じゃあ立派ななすびになることってどういうことなのだろう、ということを最近考えている。

僕を取り囲むあまたの夢や野望や理想。そういったもののなかに、「直方体を理想とする価値観」みたいなものが忍び込んでいるのではないかという疑念が湧いてしょうがないのだ。

だってもう、直方体にならなくて良いのだ。

型が外されたなすびはただただ立派に育てば良い。

なのに、直方体をどことなく目指してしまっているのかもしれない。

もっと言うとその点に自覚的になろうとしてもなお気づけないほどに、僕らは無自覚、深層部分に直方体信奉が浸透してしまっているのかもしれない。

この危機を今、この時代をいきるなるべく多くの人と共有したい。


元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/n4a66f65892ab
公開日: 2024-06-10 18:00