ルービックキューブがしたくなるのはなぜ?

木で例えるならば、それがどんな木なのか、たとえば針葉樹なのか広葉樹なのか、あるいは木肌がどうか、ということよりも、その木の太さに注目したい。

きっとハリソン山中の幹は太い。

私は、その人がどんな人かとか何をしている人か、よりも、その人なりに太くしてきた木の幹を評価したい。

そもそも人の成長は、水面に波紋が広がるがごとく、つねに円形を成す。
故に、人との差みたいなものはいつだって自分が想像するよりも大きいのである。

例えば僕はルービックキューブを揃えることができるが、今できない人も数時間動画で勉強したら簡単にできるようになる。
簡単な曲であればピアノやギターを弾くことができるが、今できない人もyoutubeでちょっとやったら簡単にできる。
他には、カトリーヌ・スパークが好きで彼女の映画を僕はみてきたが、こんなものアマプラで見ればその差は0だ。
その差は本当に簡単に埋められる。

仮に、「この人こんなことできるんだ/知ってるんだ」と思うことがあったとしよう。

先ほど話したように、そこに追いつくは意外と簡単だ。

差分を測って、埋めるための行動をすればいいのだから。
しかし、果たしてその差は本質的だろうか?
僕が思うに、本質的な差は、知ってるかどうかとか、できるかどうか、ではない。

「知ろうとしたか、しなかったか」、あるいは「やろうとしたか、しなかったか」である。

ルービックキューブなんてやれば誰だってできるようになる。

それをやろうとしたか、しなかったか、そこに差があるということだ。

では一体、その差はなんなのだろう。

本質的な差を理解するためには、自分と貴方とのそのトピックにおける現在地点の差分を測っていてはわからない。
そして詰まるところ、気づけば我々はその特定のトピック以外のことに目を向けて、考えなければならない。

ピザの生地を綺麗に伸ばすとき、くるくるとピザを回しながら、いろんな方向に伸ばしていって、少しずつ円が大きくなっていくだろう。
人の成長も全くもって同じことだと思う。

そのトピックとは全く関係のない、他の方向に自分を伸ばしているからこそ、綺麗に円を大きくしようと、別の方向にも伸ばしたくなってしまうのである。
これが「やろうとしたか、しなかったか」という差の本質だと僕は思う。

特定のトピックだけを切り出して、あの人と私の差を測ろうとすると、その考え方は極めて線形を成していく。1次元である。

しかし実際はもう少し高次元で考えねばならない。
そもそも人の成長が円形である、と考えれば、あの人と私とでは円の半径が違うわけで、その差は、線ではなく、面積の大きさで測らねばならないのである。
だから、想像するよりも大きいのだ。

極論、どんな木でも構わない。

しかし、太い木の方が僕は好きだ。


元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/nd5b9bd638068
公開日: 2025-06-11 18:00