夜、健康科学を考える

こんばんは、都築怜です。窓の外は静かな雨音が響いています。深夜の雨って不思議なもので、昼間の喧騒を洗い流してくれるような、そんな清らかさがありますね。今日は一日中デスクワークでした。肩が少し凝っていて、ふと立ち上がると、窓の外に映る街の灯りがぼんやりと滲んでいました。そういえば、最近、夜更かしの習慣が戻ってきています。以前は決まった時間に就寝することを心がけていたのですが、いつの間にか、また夜の静けさに心惹かれる自分がいます。みなさんも、計画していた日課が少しずつ変わっていくことはありませんか?

変化は時に心地よいものです。今宵はそんな「変わること」と「変わらないこと」について、静かに語り合えたらと思います。まずは、この雨の夜にぴったりの一曲を。

SpotifyAlmost Blue

先日、久しぶりに古い友人と電話で話しました。学生時代からの友人で、昔は毎週のように会っていたのに、いつの間にか年に数回話すだけになっていました。でも不思議なことに、久しぶりの会話なのに、昨日も話していたかのように自然な流れで話せるんですよね。

その友人との会話で面白かったのは、お互いの生活習慣の話です。彼は昔から徹底的な朝型人間でした。5時起床、ランニング、冷水シャワー...そんな健康的な生活を10年以上続けていると言います。私も数年前から健康に気を使うようになって、様々な習慣を取り入れてきました。でも彼とは違って、私の場合はその習慣がずっと続くわけではなく、時々崩れることがあります。

そんな話をしていると、彼が意外なことを言いました。「実は最近、たまに夜更かしすることがあるんだ。そしたら意外と体調がいいんだよね」と。いつも厳格に守っていた生活リズムに小さな変化を取り入れたら、むしろ調子が良くなったというのです。その話を聞いて、少し安心したような、そして何か大切なことに気づかされたような感覚がありました。

そんな「崩れること」の意外な心地よさについて考えながら、次の曲をお届けします。

SpotifySo What (feat. John Coltrane, Cannonball Adderley & Bill Evans)

マイルスの自由な演奏を聴いていると、型にはまることの心地よさと、型を破ることの爽快さ、その両方を感じますね。私たち人間も、ある程度のルールや習慣があると安心する一方で、時にはそれを飛び越えたくなる生き物なのかもしれません。

先ほどの友人との会話から、最近よく考えることがあります。私たちは「これが正しい生き方」「これが健康的な習慣」と、一つの答えを求めがちです。特に健康に関しては情報が溢れているので、「これをすれば健康になれる」という確かな道筋を見つけたくなります。朝のレモン白湯、適度な運動、早寝早起き...確かにそれらは多くの人に効果的なのでしょう。

でも、人の体と心というのは、単純な入力と出力の関係ではないのかもしれません。時には計画が崩れても、心が満たされていれば体も元気でいられる。あるいは、変化そのものが私たちに新鮮さをもたらしてくれることもあるのではないでしょうか。
そんなことを考えながら、静かな夜の思索にぴったりの一曲を。

SpotifyKöln, January 24, 1975, Part I - Live

即興演奏の中に見出される美しい秩序と自由。計画されていないからこそ生まれる音の世界があります。今宵のひとときです。

静かな夜が深まっていきます。私たちの日常も、計画通りに行かないことがあります。でも、そんな「ずれ」の中にこそ、新しい発見や安らぎがあるのかもしれませんね。夜更かしのあなたとともに、この静かな時間を共有できたことを嬉しく思います。おやすみなさい。都築怜がお送りしました。

健康について結構わかってきたと思っていた。
レモン白湯。
ブルーベリー食べる。
夕方以降コーヒー飲まない。
レジスタントトレーニング。
有酸素運動。
ストレッチ。
ヨガ。
コールドシャワー。
常温の水。
22:00から8h睡眠。
小麦粉を積極的に食べない。
米も積極的に食べない。
肉や魚、アボカド、地中海料理メイン。
カモミールティ。
瞑想。
などなど。
どうやらこれが僕の一つの正解なのだろうと思っていたが、違ったのかもしれない。
というのも最近、こういうルーティンがことごとく崩れている。
じゃあ健康じゃなくなったかというと、そうではない。
なんか元気だし、なんか健康。
やはり「体」と「心」の深い関係というのはあるようで、心の健康度あるいは幸福度みたいなものが、身体のリカバリーに流れ込んでいるような気すらしている。
僕はスピリチュアルは嫌いだが直感は好きだ。
この世界、説明できないことで溢れているが、「説明できないことがある」のと「説明しようとしない」のとは話が違う。
肉体の限界を知るには自らを追い込むことでしか理解できないのと同じように、世界の不思議や奥深さは、わかることを増やしていくことでしか味わえないのかもしれない。
だから僕はこうして、言葉にならない直感を、日々言葉にしている。
この世界を書き切れる日は来ないだろうが、それでも書く。
それが生きることだろう。
あれ、なんの話やっけ。
とは言いつつ、ルーティンを固めると脆さが出るので、「何をするか」であまり固める日常を送るのは苦しくなってくるだろうなとは思っていたし、ちょうど良いだろう。
やることが目的なのではなく、やったことで得たい成果だけが目的である。

都築怜